タイトルを見て、あれ? と思った方もいらっしゃるかもしれません。
モンゴル・ウランバートルにもオフィスを構えるEYS-STYLE。海外に拠点を置く企業である以上、その国の歴史や文化などに関して知識を持つことはビジネスパーソンとして当然のことでしょう。
こと日本人は自国の経済や宗教、歴史について話すことを避けがちですが…
現在はモンゴル支社を設立し、モンゴル人ともに仕事を進める企業として、自戒も含めモンゴルという国の歴史や風土などについて取り上げたいと思います。
今回のテーマは「ノモンハン事件」。
最初のテーマとしては少々重い気もしますが、モンゴルを始め周辺各国では周知の事実。しかし、当事者である日本では歴史の教科書でも、かろうじてその文言の記載はあるものの、その全貌を知る人は多くありません。
そもそも日本とモンゴルは有史以降、接点は決して多くはありません。13世紀に起きた元寇襲来以降は、しばらく接点はほとんどない状況にありました。しかし時は20世紀。日清、日露戦争を経て大陸へ領土を広げようと野望を抱いた日本が、モンゴルに侵入しようと試みたのです。
モンゴルではその当時、200年ほどに及ぶ中国清朝支配からの独立運動がおこり、1911年に自治宣言がなされました。さらに1917年のロシア革命に刺激を受け、モンゴル国内でも革命運動が盛んになりました。
その後も1920~1930年にかけて遼東半島に駐留していた日本軍は対モンゴル工作を続け、国境紛争がついには1939年にモンゴル北東部、ロシアとの国境付近でノモンハン事件(モンゴルではハルハ川事件)、事実上の国家間戦争が勃発することになります。
日本軍は、モンゴルと親密な関係にあったソ連との連合軍を相手に戦いますが、近代的な装備と膨大な物量を携えたソ連軍に壊滅的な敗北を喫しました。日本軍23師団は出動人員5万9千人のうち、戦死者8000人弱、戦傷者約9000人、行方不明者1000人超という大敗に終わりました。
対モンゴルの衝突でもあり、事実上は日本の関東軍とソ連赤軍との戦いであったという見方もあるようです。そしてソ連に恐れをなした日本は、以降は領土拡大に関して北方を諦め、南方へと転向することになります。
当時の日本は得るものなく、臭いものに蓋をするがごとく事実の封印に腐心をします。敗北の責任を前線部隊の指揮官になすりつけ、また生き残った第一線指揮官には自決を迫るなどをし、この戦いを実行させた上層部は責任を問われることなく、こうした姿勢は第二次世界大戦敗北まで続いたようです。
ざっとですが、これがノモンハン事件の概要です。
このような事実があり、長くモンゴルでは日本に対して憎悪、嫌悪感を抱くことになりますが、1972年にモンゴルと日本の外交関係が樹立し、それ以降はモンゴルの経済などの発展の援助を日本が行うなどし、関係が良好へと回復して現在に至ります。
平成16年に在モンゴル日本大使館が行った調査によると、「好きな国」「親しくすべき国」「行きたい国」など上位に日本があがり、「国として親しみを感じる」と回答した割合は7割を超えています。
今回の記事に関しては、これまでの歴史事実を述べただけであり、ここに企業として何か特別に意見をするということではないことをお含みおきください。
参考文献/『地球の歩き方2017~2018モンゴル』ダイヤモンド社
参考サイト/外務省「モンゴルにおける対日世論調査(概要)」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mongolia/yoron05/index.html